取材 / 松尾 潤
就職してからのスキーは普通のレジャーになっていたが、大学の先輩が作った社会人チームの練習に参加したことが再び石井さんを競技に引き戻すきっかけとなった。

「ニセコに集まったのですが、そこに新しいコーチとして佐藤徳造さん(パルダス・レーシングチーム代表)が来ていたんです。ジュニア時代にも教えてもらったことがあったのですが、細かいことにこだわらず長所を伸ばすスタイルのコーチングのお陰で、『スキーが面白い』と再び感じさせてもらいました」

テレビで天気予報を伝えるようになっていた社会人3年目だったが、さっそく国体予選にエントリーした。

「小樽国体の予選でした。結果は、成年A・B合わせて20番台の順位でした。もうちょっと頑張れば通用するかなあと思いましたね」

高校時代も国体予選に出場していたが、出場枠がインターハイより少ない国体では全国は更に遠かった。大学時代は青森から出場して120番台の久タートから6位に入ったこともあったが、出場枠の4位には届かなかった。小樽国体の予選は成年男子A最後の年だったこともあり、成年男子Bになれば可能性は高まるという思いが出てくるのは当然の流れ。佐藤徳造氏をコーチに迎えた社会人チーム「RIレーシング」でのトレーニングにも身が入った。

「週末に休みが取れるときは社会人のチームでトレーニングし、平日の休みはパルダスでトレーニングするようになりました。かなり滑り込むようになっていましたね」

翌年の予選は緩斜面が長いコースにやられて順位は伸びなかったが、成年男子Bの2年目の富山国体は成年男子A・B全体で5位、Bでは3位の順位で初めて予選を通過する。ニセコ花園の中斜面と色斜面のコースに石井さんのテクニックがフィットした。このレースでは、サロモンのサービスマンである小倉紹寛さんと、現デモンストレーターである岸昇治さんが1位、2位に入るのだが、この2人のキャリアを考えれば、石井さんの3位は善戦だと言っていいだろう。

「小倉さんと岸さんはポイントがなくてスタートが僕より後ろだったので、かなりヒヤヒヤしながらゴールで見ていました(笑)」

しかし、初めての国体は力を出し切れなかった。21位という結果は悪くないものであるが、北海道代表という大きな看板を背負っている以上、納得できるものではなかった。斜面変化、緩斜面へのつなぎと、何度かミスを自覚したが、それ以上に見えないミスが大きかった。それは、予選を通過したことで安心してしまった心の隙だった。北海道の選手が陥りやすいことであるが、予選のレベルが高いために殆どの選手は予選にピークが来てしまい、国体本番に気持ちのピークを持っていくことが難しいのだ。

「緊張感が足りなかった。予選を通過したことで満足していた部分が少なからずあった」

ただ、国体の面白さにはハマった。「国体本番で15番以内の結果を出したい」という具体的な目標が出来た。ただ、それでも予選を通過するまで、本番のことを考えることはできないことには変わりが無かった。そして、2回目の出場となった妙高国体は12位で、目標としていた15位以内を達成する。このとき、石井さんの心の中には、中学、高校と全道大会で敗れたときの想いがよぎった。北海道代表として国体に出て、12位という順位を手にしたことで、中学、高校時代に勝てなかった相手の多くに勝つことが出来たという想いだ。特に北海道から2度国体に出たことで、ひとつの達成感があったのだ。と、同時に今度は全国の舞台で8位以内に入って表彰状を貰って形に残したいという想いが生まれてきた。

そして、この頃から教員になりたいという気持ちが強くなってきた。大学時代に理科の教員免許を取得しており、高校のスキー部で指導したいという想いが燻っていたのだ。そして、すぐに行動に移した。ただ、専門分野では気象予報士の資格が活かせるのだが、問題は1次試験だった。1次試験をなかなか通ることが出来ずに苦労したが、4回目の受験で通過し、そのまま合格を手にすることができた。現在勤務する標茶高校はスキー部が無く、選手の勧誘もままならないが、隣町の弟子屈ジュニアの指導を手伝っている。国体で8位入賞を果たすことが出来れば、次の転任先ではスキー部のコーチとして指導に専念することを考えている。

3回目の国体だった山形ではミスのために順位を20番台に落としたが、「若い頃、全国に行くことが出来なかった選手でも国体に行くことはできる。諦めずにトライすることが、国体予選を通過するために大切なこと。最後まで続けた者の勝ちだと思う。若い頃勝てなかった相手は落ちてくる。それに対して、どれだけ伸びることが出来るか。諦めが悪いヤツにならないと駄目だと思う。来年度から成年男子Cになるので、Cになってからの数回が勝負だと思っています」と自分のやるべきことは判っている。ただ、それでも「予選を通るまで国体本番のことは考えられない」という。ここが北海道代表の難しいところだ。ただ、石井さんは他の社会人とはまったく違うトレーニング環境にあり、技術面を含めた刺激は数多く受けている。それは、北海道のジュニア選手や北照スキー部の選手とー緒に滑ることだ。社会人だけの世界では感じることができない刺激の中で技術と気持ちを鍛えている。

「中学生や高校生から刺激を受けて、技術面で盗めるものがあれば盗む。向こうは意識していないと思いますが、白分としては張り合っているつもりなので面白いですね」

高校スキー部の監督、国体8位以内入賞と、2つの目標に向けて石井さんは4回目の国体に向けて戦っている。そして、石井さんのようなコーチが、次の世代の北海道スキーを支える力になっていくのだ。


                                                      取材/松尾 潤

★このページは月刊スキーコンプ 2005年11月号 Vol.310 『国体への道』 第71回より原稿掲載いたしました。



 石井 亮 (北海道)

  
            諦めの悪いヤツ

        R  O  A  D     T  O     K  O  K  U  T  A  I

北海道江差町で生まれ、4歳から小樽で育った石井さん(33歳)は、スキーが出来る環境には困らなかったが、小柄な身体でどう戦つのかということが常に目の前に立ちはだかった。小学校1年から小樽ジュニアレーシングでポールを始め、学年別では小樽市の大会で2回優勝する(1年、5年)。全日本選手権に出場経験のある父親のマンツーマン・コーチングが大きく影響していた。ただ、中学では全道大会までは進むのだが、全国中学の北海道代表という場所は、近くはなかった。

「小柄だったので、パワーで負けてしまうという感じでした。回転で勝負をしたかったのですが、大回転の成績で回転のスタート順が決まるので、回転では勝負が出来なかったですね。他の選手に比べて身体が出来ていなかったことが悔しかったですね」

高校進学を控えて石井さんはスキーで身を立てることを目指すのか、勉強か悩んだ。

「父親も小柄だったので、これ以上身長が伸びることはないと考えて進学校に進むことを目指しました」

そして、北海道屈指の公立進学校・小樽潮陵高校に進学する。高校でもスキーを続けるつもりでいたが、小樽潮陵高校には形だけのスキー部しかなく、活動しているのは1〜2名程度。オフはサッカー部や野球部が練習しているグラウンドの片隅でひとり黙々と身体を動かした。

後輩と一緒にやることもありましたが、ひとりでやることも多かったですね。他のクラブの生徒はチームで活動していて羨ましく思うこともありましたが、割り切っていました。ただ、当時は学校ごとに1種目2名の大会出場枠があり、人数が少ない小樽潮陵では学校内の戦いをする必要がなく、大会参加が出来る利点はありました。北照などに行くとインターハイ予選に出る前に、チーム内の競争が厳しいですが、それが無い分楽でしたね」

シーズンに入ると地元のジュニアチームや北照のポールに入れてもらって、雪上トレーニングを行なってきた。もちろん、父親は折に触れてアドバイスをくれるコーチであった。その父は、「浪人覚悟でスキーをやってもいい」とサポートしてくれた。3年生の時には全道で大回転28位まで成績が上がった。しかし、当時は18位までがインターハイに行くことが出来る順位。全中より全国は近くなったが、インターハイも1秒以上の壁が残った。

「高校3年生の時のインターハイ予選のコースは約90秒で、ゴール前に約30秒の緩斜面があって、そこでやられたと思います。小柄なので緩斜面はタイムが出なくて苦手でした」

スキー名門校ではない進学校での3年間の努力は、全国大会出場という形にはならなかったが、置かれた現状でやりきった気持ちにはなることが出来た。最後のインターハイ予選はセンター試験の2日後に出場するなど、受験とスキーを両立させるための努力も続けていた。結果的には国立大学の受験には失敗したが、翌年は受験が終わるまでスキーには乗らず、国立の弘前大学に合格することが出来た。地学に興味を持っていた石井さんが入ったのは、理学部(現・理工学部)の地球環境学科。この進路選択が社会人になってからの進路選択にも大きく影響する。

「スキーは大学4年間でやめることになるかなあと思っていたので、日本海側で雪が降る所を考えていました。東京だと、北海道に戻って滑るにも交通費がかかるので、願書は雪が降る場所にある国立大学ばかり集めました」

弘前大学のスキー部は20数名の部員がいたが、バリバリの競技スキー部ではなく、ゲレンデスキーヤーも入部できるゆるやかな休育会。そのため、本格的な競技経験がある選手は各学年に1名程度。石井さんは1年次からチームで一番速い立場だった。

「大学ではスキーと勉強を五分五分で行くつもりだったので、インカレ(4部)で優勝することが目標で、半分楽しむつもりでした」

インターハイに出場できなかったものの、全道大会で活躍した石井さんにとって、インカレ4部は燃えることが出来る世界ではなかったのだろう。もちろん、大学での勉強に面白さを感じていたということもあるが、「1部校の選手と勝負したい」という気持ちは確かにあった。だが、当時の弘削大学では3部昇格すら無理な話だった。そして、3年のインカレで目標の優勝(大回転)を果たしたことで、スキーに対する気持ちが満たされた。あとは卒業後の進路を考えるだけ。丁度、その頃に気象予報士の資格制度が始まる。

日本気象協会(北海道支社)に就職した石井さんは2回目の受験で気象予報士に合格し、入社2年目にはラジオに出始め、3年目にはNHKの夕方のテレビ番組で天気予報を伝えるようになる。



   MONTHLY SKI RACING INFORMATION MAGAZINE

 
月刊スキーコンプ 2005年11月号 Vol.310
              P84〜87 国体への道 第71回に掲載されています。